元横綱・曙太郎さんが死去 1993年3月から2001年1月まで横綱に在位

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Last Updated on 04/11/2024 by てんしょく飯

 

大相撲の第64代横綱で、プロレスラーの曙太郎さんが、心不全のため、東京近郊の病院で死去した。54歳だった。

 

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横綱・貴乃花(現親方)らと一時代を築いた。

 

ハワイから来日し、203センチの巨体を武器に史上初の外国人横綱に昇進。1988年春場所初土俵の同期生でライバルの横綱・貴乃花(現親方)らと一時代を築き、引退後は格闘家に転身。総合格闘技からプロレスと活躍した。

 

曙さんは2017年4月11日に福岡・大牟田市内でのプロレス団体・DDTの主催試合に出場。試合後に体調の異変を訴え、救急車で福岡県内の病院へ救急車で搬送され、当初は「右脚蜂窩(か)織炎と感染症により現在、病院にて療養中」と発表していた。その後、意識は回復し東京近郊の病院でリハビリを続けていたが、容態が急変した。

 

曙さんはハワイ・オアフ島出身でバスケットに打ち込んでいたが、コーチと意見の食い違いから3か月で大学を中退した。同じハワイ出身の先代・東関親方(元関脇・高見山)にスカウトされ、88年2月に来日。1988年春場所で初土俵を踏んだ。長い手足と巨体を生かした強烈な突き押しを武器に、序ノ口から18場所連続勝ち越しの歴代1位の記録を樹立。93年初場所には連続優勝を果たして史上初の外国人横綱に昇進した。

 

「ライバル」と公言した同期の横綱・貴乃花と幕内での対戦成績が21勝21敗の全くの五分。「曙貴時代」を築き、空前の相撲ブームに沸いた90年代の角界をけん引した。優勝は歴代10位の通算11度。だが、200キロ以上の体重が災いして両ひざの故障に苦しみ、2001年初場所限りで現役を引退した。

 

03年11月に相撲協会を退職して格闘技に転向。デビューは同年大みそかのボブ・サップ(米国)戦。キックボクシングのK―1ルールで戦い1ラウンドKO負け。第二の格闘家人生では最初の2年間では1勝(角田信朗戦)しかできなかった。それでも05年から挑んだプロレスでは助走をつけて巨体で体当たりする「アケボノ・スプラッシュ」などでファンを魅了。13年10月には、ジャンボ鶴田、三沢光晴らも巻いた至宝ベルト、三冠ヘビー級王座獲得に成功した。これから主役として脚光を浴びそうな時期に突然、この世を去った。

 

 ◆曙太郎(あけぼの・たろう)

 

旧名チャド・ローウェン。1969年5月8日、米ハワイ州生まれ。54歳。元高見山の東関親方にスカウトされ、若花田、貴花田兄弟らとともに88年春に初土俵。90年春、新十両。同年秋に新入幕。92年夏場所後に大関昇進。93年初場所後に外国出身者として初の横綱昇進を果たす。96年に日本国籍を取得。優勝11回。2001年初場所後に現役引退し、東関部屋付きの親方に。K―1参戦のため03年11月に退職したが、13年に東関部屋の師範代に就任。麗子夫人とは98年に結婚し1女2男がいる。現役時代は身長201センチ、体重233キロ。

 

 

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