Last Updated on 02/12/2024 by てんしょく飯
大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部のライバルであり、才女として知られる清少納言が登場した。清少納言もまた、紫式部と並ぶほどの作家、歌人であるが、その名前の由来については、実に謎が多い。以下、その点について考えることにしよう。
「ききょう」の名は、あくまでドラマ上の名前である
清少納言は清原元輔の娘であるが、紫式部と同じく生没年は不明である。ドラマでは「ききょう」の名で登場するが、こちらも紫式部の「まひろ」と同じく、あくまでドラマ上の名前である。
紫式部に限らず、女性の名前に官位が用いられる場合は、親族がその官位を与えられていることが多かった。しかし、清少納言の場合は、ちょっと変わっているのである。
清少納言の父の清原元輔は、公家としてはあまり昇進せず、従五位下・肥後守で生涯を終えた。しかも、少納言になったことがなく、親族にもいない。
先述のとおり、女性の名前の一部には官位が用いられることが多いので、清少納言の場合はその原則から外れてしまう。この点は、どう考えたらいいのだろうか。
◎先祖の官位を用いたという説
一つ目の説である。鎌倉時代の例になるが、因子(藤原定家の娘)は後鳥羽上皇から民部卿の女房名を授けられた。民部卿とは、定家の先祖の長家の官位である。
このような事例があるので、清少納言の少納言は、先祖の清原有雄の官位の少納言を用いたという説がある。しかし、有雄が少納言だったというのは、「豊後清原系図」にのみ書かれたもので、根拠としては弱い。
◎夫の官位を用いたという説
二つ目の説である。清少納言が少納言を名前に用いているのは、必ず親族が少納言の官位にあったことを前提とし、清少納言は少納言だった藤原信義(元輔の子)と一時期結婚していたという説がある。
その関係から、清少納言は名前に少納言を用いたというのだ。清原元輔と藤原元輔は親交があったので、信義と清少納言は婚姻関係にあったと指摘するが、それだけでは説得力に乏しい。
◎その他の説
このほか、清少納言の場合は、例外的に親族の官位などにかかわらず名付けられたという説もある。また、花山院の乳母の少納言を橘則光(清少納言の夫)の義母とし、その関係から清少納言と名乗ったという説もある。いずれの説も考え抜かれたものであるが、やはりにわかに同意し難い。
このように考えると、清少納言の名前には、実に謎が多いといえる。この問題を解決するのは非常に困難で、今後も検討され続ける難題となろう。
主要参考文献
角田文衞『王朝の明暗』(東京堂出版、1975年)
榊原邦彦「清少納言の名」(『名古屋大学国語国文学』第32巻、1973年)
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