横尾忠則 文化功労者に選ばれる。

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Last Updated on 10/21/2023 by てんしょく飯

 

10月20日日本政府は、現代美術家の横尾忠則さんを文化功労者に選んだ。

 

文化功労者顕彰式は東京・虎ノ門のホテル「The Okura Tokyo」で行われる。

 

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プロフィール

 

生誕                 1936年6月27日

出身地             兵庫県西脇市

出身校             兵庫県立西脇高等学校

著名な実績       美術家、画家、グラフィックデザイナー、作家

代表作             『腰巻お仙』

『万博太陽』

『葬列 II』

『ロータスの伝説』

運動・動向        サイケデリック

オカルティズム

シュルレアリスム

 

経歴

 

1936年

 

兵庫県多可郡西脇町(現在の西脇市)に成瀬光政とツヨの次男として生まれる。

 

1939年

 

2-3歳の頃に、呉服商であった叔父の横尾誠起と輝恵夫妻の養子に入り、かわいがられて育つ。幼いころから絵本の模写をしていた。

 

1941年

 

5歳にして「講談社の絵本」、石井滴水の『宮本武蔵』の巌流島の決闘を模写。画才を現す。

 

1942年

 

西脇町立幼稚園に入園。

 

1943年

 

西脇国民学校(現・西脇市立西脇小学校)に入学。漫画を描くようになり『漫画少年』誌に投稿。

 

1945年

 

9歳。1月より神戸の空襲が開始され3月と6月の空襲は被害が甚大であった。西脇は空襲を免れたものの、西脇から神戸や明石の空が赤く染まるのが見えた。

 

1946年

 

母とともに大阪の鶴橋の闇市に米や織物を売りに行くが、大阪市内の空襲跡の風景に衝撃を受ける。

 

1948年

 

『漫画少年』に漫画を毎月投稿。

 

1949年

 

新制西脇中学に入学。

 

1950年

 

南洋一郎、鈴木御水の『バルーバの冒険』、山川惣治の『少年王者』や江戸川乱歩の少年ものなどに熱中。

 

1952年

 

16歳。兵庫県立西脇高等学校に入学。「郵便友の会」を作る。通信教育で挿絵を学び、油絵やポスター制作を開始する。高校学園祭のために、ポスターを初めてデザイン。エリザベス・テイラーにファンレターを送り返信があったことが地元紙で報じられる。朝鮮特需により西脇の繊維工業が活況。

 

1954年

 

18歳。武蔵野美術学校出身の教師の影響で油絵を始め、県主催の絵画展などに相次ぎ入賞。

 

1955年

 

武蔵野美術学校受験のために上京するが、前述の教師の助言もあり断念。西脇市織物祭のポスターが1等入選。郵便局員志望だったが、加古川の成文堂印刷所に入社。

 

1956年

 

神戸新聞にカットを投稿していた常連5人にて神戸の喫茶店で個展を開催。そこで神戸新聞宣伝技術研究所にスカウトされ神戸新聞社へ入社。

 

1957年

 

灘本唯人らのデザイングループ「NON」に参加。神戸新聞会館勤務だった谷泰江と結婚。

 

1958年

 

22歳。第8回宣美展で奨励賞を受賞。会員に推挙される。

 

1959年

 

23歳。神戸新聞社を退社。大阪のナショナル宣伝研究社に入社。

 

1960年

 

ナショナル宣伝研究社の東京の移転とともに上京。日本デザインセンターに入社。安保反対のデモの後でタクシーのドアで指をはさみ骨折。

 

1961年

 

25歳。京都労音のポスターを制作する。

 

1962年

 

26歳。大和証券DMのイラストでADC賞銀賞受賞。細江英公、寺山修司らと知り合う。

 

1963年

 

27歳。東京ADC賞銅賞を受賞。

 

1964年

 

長女誕生。ハイレッド・センターのシェルター計画に参加。東京オリンピックのピクトグラム作成に関わる。宇野亜喜良、原田維夫と「スタジオ・イルフィル」結成(翌年、解散)。和田誠、篠山紀信らと東京オリンピック期間中にヨーロッパ旅行。灘本唯人、宇野亞喜良、山口はるみ、和田誠らと東京イラストレーターズ・クラブを結成(1970年解散)。

 

1965年

 

– 吉田画廊の個展にて三島由紀夫と出会う。後に共に仕事をする。

 

1967年

 

– 寺山修司の「天井棧敷」に参加。ニューヨーク近代美術館に作品がパーマネントコレクションされる。

 

1969年

 

– 主役として出演した大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』が公開される。第6回パリ青年ビエンナーレ版画部門グランプリ受賞。

 

1970年

 

– 写真をはじめる。大阪万博でせんい館のパビリオンの建築デザインを担当。ロンドンを旅行。足の動脈血栓で入院、左足切断の危機を東洋医学で免れる。これを機に1-2年間の休業宣言。11月25日、三島由紀夫が自決。その3日前に横尾は三島に電話をしたが、その日は楯の会のメンバーの5人と、パレスホテルで自衛隊市ヶ谷駐屯地乱入のリハーサルを行っていた日であった。そうとは知らず横尾は「こんな雨の中、遅くまでごくろうさんです」といった。この電話では様々な話をしたが最後に三島は、「インドは死を学ぶところではない。むしろ生を学ぶところだよ。インドへ行けるものとそうでない者がいて、タイミングもある。君もそろそろインドへ行ってもいいな」といった。三島の死は横尾にインド行きを決意させる。

 

1972年

 

– ニューヨーク近代美術館で個展を開催。

 

1974年

 

– 篠山紀信とインド旅行。この後何度もインドを訪れるようになり精神世界に興味を深める。第5回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ金賞受賞。

 

1981年

 

– 渋谷西武で大規模な個展。

 

1982年

 

– 南天子画廊でペインティングの近作をまとめた個展。横尾忠則の「画家宣言」ととらえられた。画家としての活動が活発になっていく。

 

1984年

 

– ベルギー国立20世紀バレエ団(英語版)(モーリス・ベジャール主宰)ミラノスカラ座公演「ディオニソス」の舞台美術を担当。

 

1987年

 

– 兵庫県文化賞を受賞し、兵庫県公館に作品が展示保存される。

 

1995年

 

– 毎日芸術賞受賞。

 

1997年

 

– ニューヨークADC賞金賞受賞。

 

2000年

 

– ニューヨークADC名誉の殿堂入り。

 

2001年

 

– 紫綬褒章受章。

 

2002年

 

– これまでで最大規模の個展「横尾忠則森羅万象」開催。多摩美術大学大学院教授に就任(2004年まで)。

 

2004年

 

– 紺綬褒章受章。故郷のそばを走るJR加古川線電化開業、それにあわせ、ラッピング電車のデザインをし、同線で運行開始される。

 

2004年

 

– この年から、多摩美術大学大学院客員教授(博士課程)に就任。

2006年

 

– 日本文化デザイン大賞受賞。

 

2008年

 

– 初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞受賞。

 

2010年

 

– 神戸芸術工科大学大学院客員教授に就任。

 

2011年

 

– 旭日小綬章受章。

 

2012年

 

常に時代と共振する斬新なグラフィックデザイン・絵画の制作により2011年度朝日賞受賞。

 

11月3日、神戸市灘区に横尾忠則現代美術館開館。

 

2013年

 

6月27日、西脇市名誉市民。

7月、豊島横尾館開館。

 

2014年

 

5月31日、愛猫「タマ」永眠。不眠など激しいペットロス症候群を経験。裏庭に「タマ霊園」を造る。死の3か月前の2月25日、タマが行方不明に。古書店キヌタ文庫主人の、横尾の隣家が捨て猫を保護しているとの情報で、3月2日に訪問したところタマを発見。そのわずか3か月後であった。

 

1937年建造で昭和初期の面影を色濃く残し、2008年には兵庫県の景観形成重要建造物になった西脇市立西脇小学校の校舎が取り壊されるかも知れないという危機を知り、建替えに反対、保存改修による使用を強力に提案。ノスタルジーからではなく、市民の文化の高さを誇る象徴としての建造物が存在するということを自慢できる。市民一人ひとりが誇りを持っていただきたいと発言。教育の場の経済至上主義、物質主義に警鐘を鳴らした。同校舎は映画「火垂るの墓」「人間失格」のロケにも使われている。その結果、校舎3棟の保存が決まった。

 

日本宣伝賞山名賞受賞。

 

2015年

 

– 高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門受賞。6月、西脇市商業連合会が、西脇市内在住者を対象とし、市内の主要な店舗で使用できる横尾のデザインによる「西脇Y字路お買い物券」を、3億円分発行。

 

2016年

 

– 『言葉を離れる』で第32回講談社エッセイ賞受賞。

 

2018年

 

– 9月から翌年3月、西脇市岡之山美術館で特別展・「横尾忠則 西脇幻想」展開催予定。メイン作品の制作日の8月29日に美術館職員が遅刻し制作できなかったため、9月18日に開催延期が発表された。2019年9月-12月にかけて開催された『自我自損』展(エゴに固執すると損をするという意味)では、この”事件”を報じた朝日新聞の切り抜きを、Ý字路前にかざして見せるカリカチュアライズした作品などを展示した。

 

2019年

 

– 9月14日-12月22日、横尾忠則現代美術館にて、横尾自身のキュレーションによる個展である『自我自損』展を開催。横尾自身のキュレーションによる横尾の個展は公立美術館では初の試みであった。タイトルの「自我自損」は、エゴに固執すると損をする、という意味の造語で、横尾の絶えざる自己否定、一貫したテーマである「自我からの開放」を背景とする。

 

2020年

 

4月1日、 『タマ、帰っておいで』(講談社)刊行。「愛猫への鎮魂歌(レクイエム)」として描いた画集。愛猫「タマ」が亡くなったその日から、魂を鎮めるために描いたタマの絵が91点収められて、折々に綴ったタマに関する文章や日記が多数掲載されている。発売2週間で重版となり、画集というジャンルとしては異例の速い売れを記録した。

 

10月1日、東京都名誉都民。

 

2021年

 

1月15日、愛知県美術館で企画展「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」が開催(4月11日まで)。同企画展は東海地方初の個展となる[24][25]。1月20日から2月27日まで品川区東品川のYUKIO MIZUTANI GALLERYにおいて『TADANORI YOKOO SLIP OFF SLIP WITH MASK PORTRAIT』と題して東洲斎写楽の作品をモチーフにした油性浮世絵木版画の展覧会を開催、『摺れ摺れ草』シリーズ5点の作品を披露した。

 

2022年

 

2月26日、紺綬褒章飾版、木杯一組受章。

 

2023年

 

3月1日、日本芸術院会員に任命。

11月、文化功労者。

 

 

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