Last Updated on 03/14/2024 by てんしょく飯
2026年の大河ドラマが豊臣秀吉・羽柴秀長兄弟を主人公とする、『豊臣兄弟!』になることが報道された。秀吉は有名な人物であるが、弟の秀長はあまり知られていない人物なので、紹介することにしよう。
秀吉の3歳年下の弟
天文9年(1540)、秀長は秀吉の3歳年下の弟として誕生した。成長して小一郎と称され、のちに長秀と名乗ったが、さらに秀長と改名した。
秀長は織田信長に仕えていた秀吉に従い、中国計略に出陣するなどし、大いに軍功を挙げた。「天空の城」として知られる竹田城(兵庫県朝来市)主になったのも、この頃である。
天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が横死すると、秀吉は信長を自害に追い込んだ明智光秀を討伐し、信長の後継者として、天下人への名乗りを挙げた。
その後、秀吉は織田信孝、柴田勝家らのライバルを蹴散らし、徳川家康、織田信雄を臣従させた。天正13年(1585)に関白になると、同じ年に秀長も、岡山(和歌山市)に居城を築き、紀伊・和泉両国に64万石を与えられたのである。
秀長は見事なまでに家臣団を統制し、領民に思いやりある政治を行ったといわれている。以後も秀長は、秀吉の命に従って天正13年(1585)の四国征伐に出陣し、勝利に貢献した。その功により大和44万石をさらに加増され、郡山城(奈良県大和郡山市)に本拠を移したのである。
秀長が大出世を遂げた理由は、秀吉の弟だったからという事情もあろう。とはいえ、頼りになる親族が少なかった秀吉が、弟の秀長に全幅の信頼を寄せていたことは明白であろう。それゆえ、歴史小説では秀吉の「ナンバー2」とまで称された。
天正14年(1586)、九州では薩摩の島津氏が席巻し、対立していた豊後大友氏が窮地に陥ってた。困った大友宗麟は、秀吉に支援を依頼すべく上洛した。その際、秀吉は「内々のことは千利休に相談し、公儀のことは秀長に相談するがよい」と述べたという。
秀長は豊臣政権の中枢にあって、大名統制の一環を担っていたと考えてよいだろう。こうした役割を秀吉が秀長に与えたのは、単に弟だからという理由に止まらないで、その有能さを買われていたからだろう。
秀吉は性格が非常に苛烈で、諸大名に厳しい態度で臨むことがあった。一方の秀長は性格が柔和で、温厚篤実だったと言われている。まさしく「剛」の秀吉と「柔」の秀長が両輪となって、豊臣政権をけん引したのである。秀長は、秀吉にとって必要不可欠な人材だった。
秀長は秀吉を補佐して豊臣政権を支えたが、天正19年(1591)に52歳で病没した。あまりに早い死だった。「もし秀長が長生きしていれば、豊臣政権の行く末は違っていたはず」という人もいるが、それは仮定の話であって、実際にどうなったのかは誰にもわからないことである。
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